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舞衣の贖罪























(三十一)


八月 二十一日 木曜日 午後三時  吉竹 舞衣
   


「あの、早野 勇さんのお見舞いに来たんですけど……部屋番号を教えてもらえないでしょうか?」

「では、この書類に住所とお名前をご記入ください」

B5サイズ程度の紙に、指定された項目を記していく。

「えー、早野さんなら、入院病棟の6階、604号室です」
ここのロビーを出られて、西側の建物になります」

書類を提出したわたしに、総合インフォメーションと記されたコーナーの職員さんは、親切に対応してくれた。
わたしはお礼を言うと、花束を手にロビーを後にする。

教えてもらった病棟はすぐに見つかり、わたしは入り口で暫く立ち止まった後、エレベーターへ向かった。

あら、また会ったわね。
あなた、有里と一緒にいなくていいの?
…… ……
……そう。
だったら、わたしに付き合ってもらっていいかな。
話したいこともあるしね。



「確か、6階だったよね……」

わたしは、フロアーを示すランプが上昇するに従い、早打ちする鼓動を押えられずにいた。

落ち着いて、舞衣。
これが、あなたの望む贖罪の第一歩なのよ。

自分に、何度も言い聞かせてみる。
でも……心が折れそう。

あなた、わたしの心を支えてもらえる?
…… ……
……ありがとう。
それじゃあ、わたしのためと思って、少しの間、聞いててね。

昨日の電車内での出来事は、あなたも知っているでしょう。

わたしも驚いたわ。
だって、有里と千里さんが突然、目の前に現れたんだから……
しかも、事態は切羽詰まった感じで……

わたしは、咄嗟の機転で、携帯を鳴らしてふたりを救い出そうとした。
そうして、気が付いたときには、3人一緒にホームに立っていたの。

怖くて恐ろしくて、肩がブルブル震えたけど、神様はそのお礼に、素晴らしいプレゼントを送ってくれたわ。
わたしと有里は、駅の1階にあるカフェで、千里さんにケーキをごちそうになったの。

えっ、そのことがって……?

……うん、それもあるけど……

わたしが嬉しかったのは、有里と一緒にケーキを食べたこと……
彼女とは一言も話せなかったけど、夢のような時間だった。
おかげで途中、何度も涙が出そうになったけどね。

そして、もうひとつ、千里さんに出会えたこと……
世の中に、こんな素晴らしい女性がいるなんて思わなかった。
だって、こんな幸せな機会を提供してくれたんだから……

でも、不思議……
彼女には、あのとき初めて会ったのに、なぜか他人のような気がしなくて……
わたし、千里さんのことを、実のお姉さんにように思うようになっていたから……

それでかな……
千里さんに、有里と早く仲直りすることを諭されたような気がしたの。
そう、千里さんの目が、そう訴えていた。
それに耐えうるだけの勇気も、わたしはもらった。

ありがとう、千里お姉さん。
あなたに会えたおかげで、わたしは、一歩踏み出せそうだから……

……うん? まだ、隠していることがあるって……?
あなたは、全てお見通しって感じね。

これは、有里には内緒にしてね。

実はね。昨日、千里お姉さんや有里に会ったのは偶然じゃなかったの。
わたしは、有里に気付かれないように、後をつけていた。
理由は……あなたも知っているてしょう。

あの時もそうだった。
だからわたしは、有里の姿を追いながら、隣の車両から彼女を見つめていたの。
そうしたら……あとはあなたも知っているとおりよ。

ただ、ちょっと気になることがあって……

ふたりが飛び込んで来る前から、わたしの向かい側で、ビデオカメラを使って何かを撮影している人がいたの。
物凄く体の大きな人だった。
顔はよくわからなかったわ。
サングラスを掛けていたからね。

それとあの3人組……
電車の中から、笑ってこっちを見ていた気がするの。
まあ、気のせいかもしれないけど……

……どうしたの? まだ、隠してるって?

ふーぅ。あなたには、かなわないな。
全部、話してあげるわ。

わたしね、心の中では、贖罪するんだって思っていたけど、何ひとつそれらしいことが出来ない自分に苛立っていたの。
具体的に有里と家族の人たちに何をすべきなのか?
それさえ見付けられずに生きている自分に、憎悪さえ抱いた。

ふふふ……身勝手でしょ。
あなたも、そう思うでしょ。

そんなわたしに、千里さんはきっかけを教えてくれた。

だからわたしは、一晩考えた末に、有里のお父さんのお見舞いに行くことにしたの。
もちろん、このことは家族には内緒。
これは、わたしの問題だから……

ね、これでわたしが、ここにいる理由がわかったでしょう。



エレベーターの扉がひらくと、6階のフロアーに降り立っていた。

廊下の壁に贖罪すべき名札を見付けて、心がまた折れそうになる。

「失礼します……」

控えめな声のわたしを、病院独特の消毒液の匂いが出迎えてくれた。

ドクッドクッって、また心臓が高鳴り始めてる。
知らず知らずのうちに、呼吸もしずらくなっている。

わたしは、気持ちを落ち着かせようと、室内を見渡した。
西日を避けるためか、ブラインドの下がった部屋は、昼間だというのに薄暗い。
そして、一目で見渡せる病室には、わたしと、静かに寝息を立てている有里のお父さんだけ……

あっ、そうだ。

花束を握り締めたままのことを思い出したわたしは、花瓶を探そうと、おじさんに背を向けた。

舞衣、何をやっているのよッ!
もう一人の自分が、急かしている。

わたしは、自分の犯した罪から、本能的に逃げようとしていた。

とりあえず、花束を棚の上に置いたわたしは、重くなった身体を引きずるように医療ベッドの脇に立った。

「…… ……
……おじさん、わかりますか?
わたしです。吉川舞衣です。
有里さんの友だちだった吉川舞衣です。
気を悪くされるかもしれませんが、わたし……おじさんに会いにきました。
ですから、しばらくの間、ここにいさせてくださいね。

ところで、お身体の具合はどうですか……?
……よく……ないですよね。
これ、言い訳になるかもしれないけれど、わたし……おじさんがこんなに苦しんでいるなんて知りませんでした。
謝って済むことじゃないですよね。
本当にごめんなさい。

父がおじさんにした仕打ちは、わたしが心からお詫びします。
有里さんが、わたしを憎む気持ちもよくわかります。
でも、今でもあの人は、なんの反省もなく生きています。
それが、当然とばかりに……
わたしは、もう、あの人を父とは思っていません。
あの人は、人間の顔をした鬼。
そして、わたしは、鬼の娘。
だから、父の罪をわたしなりに償いたいんです。
これから、わたしの一生をおじさんと家族に捧げるつもりです。
そして、有里さんはどんなことがあっても、守ってみせます。

あの、怒らないで聞いてくださいね。
昔、おじさんの家にお邪魔するたびに、わたしに言いましたよね。
『有里をこれからも、よろしく頼む』って……
あの時は、よくわからずに返事をしていたけれど……
お願いします、おじさん。
もう一度、このわたしに仰っていただけますか。
『有里をこれからも、よろしく頼む』って……
…… ……
あ、無理しなくていいですよ。
わたしは、おじさんに会えただけで、充分にこれからの勇気をいただきましたから……

ちょっと話しすぎましたよね。
ごめんなさい
あの、これからも顔を見せて構いませんか……
勝手と思われるかも知れませんが、わたしのわがままだと思って下さって結構ですから。
それでは、またお話をさせてください。
今日はごめんなさい」

話し終えたわたしを、嗚咽が待っていた。
でも、よかった。
病室に誰もいなくて……

わたしは、眠っているおじさんの顔を覗き込んでから、履いている靴を脱いだ。
そして、両手両ひざを床につけて、目をつぶり頭を下げた。

許してください、おじさん。

わたしは、何度も何度もささやくようにつぶやいた。
ポタっポタって水滴が床に落ちる音が聞こえる。
謝罪で涙なんてずるいけど、今だけは許してね、おじさん。



どれくらい、そうしていたのかな。

カチャッっていう扉のひらく音と、「早野さん……」でピタっと止まった女性の声に、わたしの謝罪のささやきが中断した。

「ま、舞衣さん、なにをしているのよっ?!」

驚いた様子でわたしに近寄った女性は、ナース姿の千里さんだった。

顔を上げたわたしを見て、更に驚いた顔をしている。
でも、わたしも驚いていた。
まさか、千里さんが、おじさんの看護をしていたなんて……

「なにも言わなくていいから……」

そう言うと、千里さんは自分のハンカチで、わたしの顔を拭いてくれた。
そして、窓際に丸椅子を置くと、わたしを座らせた。

「ごめんなさい。驚かせて……
わたし、有里のお父さんに、どうしても会わなければいけないと思って、ここに来たんです」

「はーぁ、やっぱり……
あなたと有里さんの間には何かあるのね。
昨日、会ったときもお互いぎこちなかったから……」

やっぱり、千里さんは、気が付いていたんだ。
わたしと、有里のこと……

「もう、しょうがないわね……
ひと肌脱いであげるわ。
私のこと、お姉さんだと思って、全部話しなさい。
話の内容によっては、いい答えが見つかるかもしれないからね」

「……わたし……わたし……」

千里さんが、せっかく顔をきれいにしてくれたのに、また、涙が溢れてくる。
わたしは声を詰まらせながら、今までの経緯、今のわたしの気持ち、その全てを話した。

千里さんは時折うなづきながら、じっとわたしの目を見つめて、話に耳を傾けてくれた。

「……よく話してくれたわね。
辛かったでしょう、舞衣さん。
あなたの気持ち、私にもよーくわかるわ。
私も……ううん、今は舞衣さんの今後のことだよね」

しばらくの間、千里さんは、窓の外を眺めるようにして、じっと黙っていた。
そして、考えがまとまったのか、わたしに微笑みかけるようにして、口をひらいた。

「……確かに、あなたが罪の意識に悩みながらここまで生きてきたことには、私も同情するわ。
でもね……
もっと割り切ったほうが、楽じゃないかしら」

「……割り切る?」

「そう。罪の意識を片隅に残しておいて、普通の18才の女の子らしく、あなたの有里さんに対する思いをぶつけてみるの。
すぐには、できないと思うけど、ゆっくりとそういう努力を続けていけば、有里さんもきっと心をひらいてくれると思うから……」

「わたしにできるかな?」

「大丈夫。舞衣さんなら、きっと……」

わたしは、千里さんにお礼を言おうとして立ち上がった。
その時……?!

カチャッ……!!

病室の扉がまたひらいて、今度は元気な女の子の声が響いた。

「お父さん、お見舞いに……?!
ぇぇええッ……どうして……どうしてここに、あなたがいるのよッ!」

入ってきたのは、有里と有里のお母さんだった。

「あなたッ、どういうつもりよォッ!
今すぐ、ここを出て行きなさいよッ!
早く出て行ってよォッ!」

有里は、窓際のわたしたちの元へ駆けよると、今にも掴み掛りそうな勢いで、わたしを睨みつけている。

「有里、落ち着きなさい……」

「お母さんは、黙っててッ!」

ヒステリックに叫ぶ声に、室内がシンとする。
わたしは、彼女の後ろで声を失い立ちつくすおばさんに、目で軽く挨拶すると、震える声で話しかけた。

「ごめんなさい。わたしが悪かったわ。
有里。あなたの気に触ることをして、本当にごめんなさい。
ただ、わたし……
有里のお父さんのお見舞いを、どうしてもしなくちゃいけないと思って、ここに来たの。
だから、許して。
お願い有里……」

「有里、有里って……ッ!
何度もわたしの名前を呼び捨てにしないでよッ!
友だちでもないあなたに、呼ばれたくないのよ。
さっ、出て行ってくれる……」

わたしは、有里に何度も頭を下げて、部屋を出て行こうとした。

「待ちなさいよォッ!」

振り返ると、棚においたままになっていた花束を、有里が指さしている。

「このゴミも一緒に、持って帰ってくれる」

「有里……」

千里さんの言葉に少し希望が見えかかったけど、やっぱり幻想だったみたい。
そうよね。これが現実よね。
わたしは、有里の言うゴミを取ろうと手を伸ばした。

「ストォップッ……!」

窓際から、誰かの声がした。

「ここは、病室なのよ。
あなたたち、そのことわかっているの?
ここで、大きな声を出すことは、ナースである私が許さないから……」

「でも、千里さん。
舞衣がここに来るから、こんなことに……」

「有里ッ、黙りなさいッ!
……ちょっと、ふたりに話があるから付いてきなさい。
さあ、有里! 舞衣!」

驚いた。千里さん、こんなにしっかりしているんだ。
わたしは、同じようにあっけに取られている有里と一緒に、千里さんの後を追いかけた。



10分後、わたしたち3人は、病院内にある喫茶室にいた。
向かい合うように、千里さんが、そして、わたしの隣に有里が座っていた。

有里は、さっきからずっと、頬を膨らませながら目を泳がせている。
彼女がこういう表情をするときは、怒りが収まりかけて、ちょっと後悔しているとき……
わたしは、長年の付き合いで、有里の表情から大抵の感情は読み取ることはできる。
別に彼女の性格が単純って訳ではないけどね。

「ちょっと、驚かせちゃったね。
でも、あそこで騒がれて患者さんに何かあったら、私の管理責任が問われるのよ。
……どうしたの? 以外そうな顔をして……」

「いえ。てっきり、わたしと有里……さんのことを気遣って言ってくれたのかと……」

「ふふっ、これが大人の言い訳ってやつ。
嫌いでしょう。こんな言い方……
じゃあね、私の本心で言ってあげる。
さっさと、こんなつまらない意地の張り合いは、おやめなさい」

「つまらないって……千里さん、ひどいよぉ……」

有里が、わたしから顔をそらしながら、拗ねたような声を出した。

「有里には悪いけれど、大まかな話は舞衣から聞いたわ。
確かに、舞衣のお父さんはひどい人かもしれない。
でも、それと舞衣さんは関係ないじゃない。
血は繋がっているけど、ただ、それだけの関係……
人にはそれぞれ、確立された個性があるの。
舞衣さんには、舞衣さんの……
お父さんには、お父さんの……
それぞれをはっきりと区別していかないと、家柄だとか、国籍だとか、ツマラナイものに囚われてしまうわよ。
今は、まだ、お互いにわだかまりがあると思うけど、ゆっくりとでいいから、解きほぐすべきだと思うわよ」

千里さんは、そう言うと、わたしと有里の両方に視線を合わせて、納得させるようにうなづいた。

「あの、千里さんは、どうして、わたしや有里さんを気にかけてくれるんですか?」

「うーん。ふたりが可愛い私の妹だから……これで、どう?」

わたしは、くすくすって笑った。
隣を見れば有里もくすくすって笑って、目があって笑うのをやめた。

「業務連絡、水上千里さん。至急、入院病棟6階のナース室まで……」

まだまだ続いて欲しかった幸せな時間に、突然の院内放送が終わりを告げた。

「あっ、さぼっているのが、見つかっちゃったかな。
私、もう行かないと……
怖ーい婦長さんが、角を出していそうだからね。
それじゃ、私の妹たち。仲良くしてよ……」

千里さんは、慌てて席を離れた。
わたしは、彼女を見送りながら、胸の中でそっとつぶやいた。

ありがとう、お姉ちゃん。



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セクシーファッション その1























(三十二)


八月 二十二日 金曜日 午前九時三十分  早野 有里
  


「おはよう、有里。
……ほーぉ。
あなたがミニスカートなんて、珍しいわね。
……さては、男でも出来たかなぁ」

「わかるーっ……? 理佐ぁー……
実はねぇ、わたし好みのいい男が……って、わけないでしょッ!
ふふふ……ただのイメチェンよ。
いつでもラフなジーンズ姿ってのも、なんだかねぇ……
野暮ったいというか……かわいくないというか……
きっと、そう思ってる男子君もいるでしょ。
だからわたしも、ファッションに、もう少し気を使おうかなって、思ったわけなのよ」

わたしと理佐が、あいさつを兼ねたおバカな会話をしている最中も、次々と学生が、正門をくぐり抜けていく。
携帯をいじりながら黙々と歩いている人……
他愛も無い会話を繰り広げながら歩く、3、4人のグループ連れ……
それに、ふたりだけの世界に、どっぷり浸りきっている甘ーいカップル……

目の前で、わたしと話している彼女を含めて、いつもと変わらない朝の風景……
当然、わたしもって、言いたいところだけど……
悲しいくらい違うのよねぇ……

ふふふ……知りたい?

…… ……

でも、教えてあげなーい。
どうせ、きみはわかっているんでしょ?
今朝のわたしの姿……

まあ、その代わりと言ったら彼女に失礼だけど、わたしの友だちを紹介するね。

名前は、上條理佐。 
わたしと同じ、教育科に在籍する同級生なの。
彼女とは、大学に入学してから知り合ったんだけど、なんていうのかな?
うーん、一言で説明すると、ためになる情報屋さんかな。
どこで仕入れてくるのか知らないけど、とにかく大学内の人間関係なら、学生から学校関係者まで、すべて網羅しているって感じ。
わたしもちょくちょくお世話になっているんだけど、これは非常に便利。
こんな友人を持てたことを、ラッキーと思わないとね。

それで、美人かって……?
きみ、見ててわからないの?

……それ以上に、このお話に出てくるわたしの知り合いは、みーんな美人なの。
それに、性格もスタイルも完璧って、決まっているの。
きみも、この世界での生活が長いんだから、そのくらい、気が付いていると思ってたのに……

……って、わたし……なんか変なこと言った?
うーん、都合よく記憶がなくなっちゃった。

「でもねぇ、有里。上のタンクトップは、ちょっとやり過ぎだと思うよ。
ほら、男子の物欲しそうな目……
有里のセクシーファッションに釘付けだよ」

「そうかなぁ? この方が活動的でいいかなぁって思ったんだけど……」

そう言って、わたしは周囲に視線を走らせた。
目が合ってさりげなくそらす人。
それでもじーっと見続ける人。
そして、さげすむような視線を送る人。
因みに前者ふたつは、男子生徒。
後者はわたしと同じ女子生徒。

結論。わたし、注目されてる!
やっぱり……当然だよね。
わたしは、改めて自分の服装に視線を落とした。

普段のわたしは、ゆるゆる感たっぷりの長袖Tシャツに、デニムのジーンズが定番なんだけど……
今日の服装はギャップが激しすぎたみたい。

肩が全て露出する、ピンクのタンクトップに、太ももの半分くらいがむき出しの、バックにリボンの付いたフリルスカート。
おまけに、伸縮性のあるタンクトップの生地は、ボディーラインをしっかりと教えてくれるし、裾丈の短いミニスカートは、前を屈むだけで中までしっかりと拝めるという、男子諸君には実にありがたい服装になっている。

随分詳しいって……?

当たり前でしょ。
部屋で着替えるときに、しっかりとチェックしたわよ。
そして、全て着替え終わって泣いたんだから。
そのまま、30分間、鏡とにらめっこして、涙が乾くのを待って部屋を出たの。

通学途中も大変だったんだからね。
商店街でのいつもの元気な挨拶も控えめに、歩道橋や駅のエスカレーターでは、ずっとバックをお尻に当てて、後ろをチラ見。
おかげで、首の筋が引きつっちゃって痛くなってきた。

こんな格好、お母さんに見られたら、なに言われるか……
帰ったらさっさと着替えないと……

まさかこの格好で、1日過ごせとは言わないよね。
わたしは、ポケットの中の携帯をギュッと握りしめた。

「ねえ、有里聞いてる?」

少し別の世界へトリップしかけていたわたしは、現実の世界へ呼びもどされる。

「あっ、ごめん。ちょっと考えごとをしてて……」

「ふーん。そうなんだ。
でもね、有里。どんなファッションをしたってあなたの自由だけど、あの人にだけは気をつけた方がいいわよ」

彼女は、校庭の端からチラチラとこっちを窺っている女子生徒を、視線で教えてくれた。

門田頼子。わたしとは同じ教育科で同級生の子。
でも、彼女とは入学以来ほとんど話したことはない。
初めて会ったとき、ちょっとしゃべって気が付いた。
この人の性格、わたしは好きじゃないって……
ルックスもいいし、スタイルもいいし、取り巻きも多そうだけど、わたしは付き合わないことにしている。

「ご忠告、感謝いたします。
それでは、わたし早野有里は、講義を受けに行ってまいります。
……じゃあね」

わたしは、おどけながら理佐にお礼を言うと、真っ直ぐ前を向いて教育棟へ向かった。
間違っても、あの子に視線を合わせたくなかったから……



「どうやら、ついて来ていないようね」

わたしは、校舎の入り口でふーっと、息を吐いた。

「誰がですぅ……?」

えぇぇっ! 誰ぇぇっ?

階段の方から声が聞こえて、誰かが腕だけ伸ばして手招きしている。
瞬間、キャー、オバケッて……叫ぶ……わけないでしょ。

わたしは、声の主の元へ歩いていくと、一言、言ってあげた。

「わたしのパンツ返してよぉッ!」

「はあ? 私、何かいたしましたかぁ?」

「とぼけないでよ。あの後……わたし……パンツ……・しで、帰ったんだから」

副島に苛められたあの日の夜……
わたしはシャワーを浴びようとして気が付いた。
パンツがないって……
そして、裸のまま考え続けて、決めたわ。
パンツ無しで、帰ろうって……
決めたんだけど、病院を出た途端、冷たい風が吹いて……
何も着けていない股の下がスースーして……
急に心細くなって……
思わず内股で歩いてた。
おまけに、タクシーを呼ぼうとしたら、全然捕まらないし……
仕方ないから、家に着くまで、スカートを両手で押さえ付けながら帰ったんだから。
死ぬほど恥ずかしくて、情けなくて、家までの距離が地獄のように長く感じたんだよ。

それなのに、きみは靴紐を結ぶ振りをして、わたしの前でしゃがんでいたでしょ。
あれ、どういうつもりよ。
わたし、知っているんだよ。
きみの目が、変態さんのように輝いていたのを……
本当なら、こんなか弱い女の子を守るのが、きみの役目なんだよ。

「有里様もこれで、露出の道へ一歩進めたわけで、私も嬉しいかぎりです。
何といっても、ノーパンは露出の基本中の基本ですからねぇ」

「どこまでも、あなたって人は……」

「ところで、有里様。
今日の衣装は、男の私としても、目のやり場に困るようないやらしさが漂っていますが……」

副島の手がスカートに伸びそうな気がして、わたしは慌てて裾を押えた。

「相変わらず、あなたは、白々しいジョークが好きね。
きのう、宅配でこの衣装を届けたのはあなたでしょ。
危うく、母の目の前で開けてしまうところだったんだから」

「その時は、母と娘の露出衣装比べでもしてみたら、面白いかもしれません」

「母は関係ないでしょッ! 
冗談でも、それを言ったら怒るわよッ!」

わたしは、声を荒げてから通路を覗いた。
幸い、誰も歩いていない。

「まあ、いいわ。
それで、今日は横沢さんは来ていないの?
わたしは、あなたのメールの指示に従って、こんな服装でここまで来たんだから」

カメラ係の横沢さんがいないと、行為の撮影が出来ないじゃない。
それとも、こっそりと、わたしの露出衣装デビューを撮影しているのかしら?

「残念ながら、彼なら今日はいません。
……ところで有里様、どんな気分です?」

「どんなって? ……恥ずかしいに決まっているでしょ。
それに、惨めで情けないわよ」

副島の目が、わたしの胸のあたりで停滞している。
まだ、なにかする気……?
ダメ、こんな姿をじっと見られていると、身体が熱くなって顔が火照ってくる。

「有里様ぁ、ブラジャーをいただきましょうかぁ」

やっぱり……
副島がやろうとしていることが、悲しいけどわかってしまった。
わたしに、ノーブラで講義を受けさせようとしている。
今の服装でも、ものすごく恥ずかしいのに、その上、ブラジャーを外せなんて……

「嫌です。できませんッ!
……ここは大学なんですよッ!……学校、わかります?」

「でも、あなたに拒否権は、あ・り・ま・せ・ん。
私の指示には全て従ってもらいますよぉ。
有里様ぁ、お父さんを助けたいでしょ……」

この人、卑怯だよ。
なにかあったら、いつもこれだもん。
最初から答えはひとつしかないじゃない。

でも……でも……こんな伸び縮みする生地で、ブラを着けないとどうなるの?
乳首が浮かび上がるってこと……ないよね。

「さあ、早くブラジャーを外しなさい」

「……くッ……わかったわよ。
今外すから……ちょっと待ってよ」

わたしは、恨めしそうに副島を睨みつけたまま、背中に両手を回した。
そして、タンクトップの裾を少し捲るようにしながら、手を差し込んだ。

ここは、通路からは死角になっていて、たぶん覗かれることはないと思う。
だからって、こんなところでブラを外しているなんて……
やっぱり変だよ。恥ずかしいよ。

でも……従わないと……
わたしは、両手を背中の上に伸ばすと、ホックをパチンと外して、緩んだ肩紐を肩からずらした。
そのまま、お腹の側から片手を差し込んでカップ部分を掴むと、下から抜き取った。

「……これで……いいんでしょ」

声が上ずってる。
わたしは、肌の湿気を吸い取ったブラに、ほっぺたが熱くなるのを感じながら、副島に手渡した。

「講義が終わったら、必ず返してよ。
……これ、高かったんだから」

わたしは、恨みを込めて副島をひと睨みしてから、講義室に向かおうとした。

「待ってください。これをお持ちになって下さい」

副島が差し出したのは、1本のボールペンだった。



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セクシーファッション その2























(三十三)


八月 二十二日 金曜日 午前十時  早野 有里
  


わたしが教室に入ったのは、講義が始まる2分前だった。

もう少しで遅刻ってタイミングを、全速力で滑り込んで、ギリギリセーフ……
普段のわたしなら珍しくない光景だけどね。

でも、今日は違った。
だってわたし……
教室の前の廊下で、壁に寄り掛かっていたから……
そうね、10分以上前からかな。

それだったら、中に入れば? って、思うかもしれないけど……
どうしてかな? 両足が動いてくれなかったのよ。

でもね、さすがに講義をさぼるわけにいかないでしょ。
だからね、わたし、むき出しの太ももを思いっきりつねってあげたの。
いつまで、わがまましてるのって……

教室に足を踏み入れた途端、複数の視線がまとわりついてきた。

普段から、こんな視線を浴びていたのかな……?
それとも、今日は特別……?
わたしって美少女だから、仕方ないよね。

「有里、こっちこっち……」

わたしは、必死で自分を騙し続けると、理佐が用意してくれていた窓際の席に、慎重に座った。
そして、太ももをピタッと閉じ合わせた。

「どうしたの? 随分と遅かったじゃない。
私より先に校舎に入ったのに、どこへ行っていたのよ?」

「ちょっと、そこで呼び止められちゃって……お話していたの……」

「えっ、誰と……?」

「それは……」

「まあ、いいわ……
聞かないでおいてあげる。
今日の有里の服装を見れば、想像付くしね。
……でもね。気を付けなさいよ。
男は充分吟味しないと、取り返しがつかないからね」

理佐は、人生の先輩のような口ぶりで警告してくれた。

そうよね。男は危険で残酷な生き物……
その警告、もう少し早く聞きたかったな。

わたしは、机に身体を押し付けると、両腕を机の上でクロスした。
こうしていれば、胸のふくらみも半分はごまかせるはず……?

ガラガラガラガラ……

教室の前の方で扉のひらく音がして、若い講師が入って来た。
生徒の視線が、教卓に集中してる。

わたしは、黒目を左右に走らせた。
そして、副島に押し付けられたボールペンを、さりげなく机の上に置く。
確か、ペン先を自分の方に向けるんだっけ。
でも、これがカメラだなんて、本当に信じられない。
どう見ても、ただのボールペンにしか見えないもの。

……やっぱり、男は危険ね。
自分の性欲のためならこんな物まで作り出すんだから。

わたしは、ボールペン風カメラをにらみつけてみた。
あの人……きっとどこかで、わたしのことを監視してる。
そして、わたしの恥ずかしいファッションを覗いてニヤニヤしているんだわ。

講義が始まって30分……
どこからか、スヤスヤと寝息が聞こえてくる。

誰よ、授業中にお昼寝してる人は……?
これだから、今の若い者はって、馬鹿にされるのよ。
それに、あの講師。授業の中頃になると、必ず出来の悪そうな生徒を指名して、教卓の前で模範解答を説明させるのよね。
まあ、成績優秀なわたしは指名されたことはないけれど……

「この国の……○○における……○○は……で、ありまして……」

「……それに……進んだ……?……?……」

「……?……?……」

「……スーゥッ、スーッ、スーッ……」

「……早野さん……」

「……早野有里さーん……」

「……早野ォッ!!」

えっ? わたし……呼ばれた?

隣の席で理佐が、呆れた顔でわたしを見ている。
何人かの生徒が、振り返るようにしてわたしを見ている。

そして、ありえない先生のご指名が……

「早野さん、ここに来て私の質問に答えてもらいましょうか?
ぐっすりと眠っておられたようですから、頭のリフレッシュも出来ているでしょう」

クスクスと含み笑いが聞こえる。
わたし、こんなことで目立ちたくなかったのに……
どうして、居眠りなんか……
有里のバカ、あなたは大馬鹿者よ!

「どうしました。立てないんですか? 早野さん」

先生の催促に、ますますみんなの視線が、わたしに集中してる。
隣で、理佐がお手上げのポーズ。
わたし、友だちにも見捨てられちゃった。

(副島、あなたのせいで……)

わたしは、憎々しげにボールペンを睨みつけると、普通を装って立ち上がった。
瞬間、お尻が突き出されて、スカートの裾が後ろにパッとひらいた。

でも幸運だったのは、理佐が一番後ろの席を確保してくれていたことかな。
そうでなかったら、今頃、男子諸君の大半が鼻から血を流して、仰向けに倒れていたかもしれない。

わたしは、周囲に視線を走らせながら、教科書を太ももにひっつけて、慎重に歩き始めた。
教卓までの道のりが、とんでもなく長いものに感じてる。
それに、視線が……無数の視線が……わたしに、ううん、わたしの身体に嫌と言うほど注がれて、出来るものなら、今すぐここから逃げ出したい。

ゴクッ、ごくっ、ゴクッ、ごくっ……

男の子が唾を飲み込んでいる。
女の子が、蔑むような軽蔑の眼差しを送っている。
わたしのむき出しの肩を……
スカートからはみ出た太ももを……
無数の視線が刺してくる。

恥ずかしくて、恥ずかしくて、片手で胸を覆って、片手でスカートの裾を押えたいのに……
そんなことをしたら、余計に不自然に見られちゃう。
ものすごく恥ずかしいのに、どこも隠せない。

目の前の男の子が、わたしの胸をジッと見つめている。
わたしは、恐る恐る下をうつむいた。
そして、ピンクの生地に浮かび上がる、胸の恥ずかしい突起を確認する。

ブラを取り上げられたから……
タンクトップの生地が薄いから……
それは、胸のふくらみの中央で、小さなボタンのように浮いていた。

有里の……乳首……
よく見ると、前列の子みんなの視線が、わたしのオッパイに……?!

いやぁっ、見ないでよ……お願いだから、見ないで……
顔が発火するくらい熱くて……
消えて無くなりたいくらい恥ずかしくて……

わたし、先生の前でうつむいたまま、何も言えなかった。
こんな、男を誘うような格好をして……
おまけにノーブラで、乳首を浮かび上がらせて……
こんな姿、お父さんや、お母さんが見たらどう思うかな?
わたし、早野家の娘に生まれなければ良かった。

……いけない。また貧血かも……
……気分が悪い。
目の前が……暗い……
身体が……ふらついている……

「おい、早野……大丈夫か?」

教室がざわついて、先生の慌てた声が聞こえる。

ごめんなさい先生。
そして、みんな……
大切な授業をわたしのせいで、混乱させてしまって……
でも、今のわたしには、どうすることも出来ないの……許して……

「先生。わたしが、早野さんを医務室まで連れていきますッ!」

廊下側の席から、凛とした女子生徒の声が聞こえて、わたしを支えるようにして、教室の外まで連れ出してくれた。

「大丈夫? 有里……」

どこかで聞いたような声……
ものすごく、懐かしい声……

それなのに、顔を上げたくないのは……なぜ?
目をひらきたくないのは……なぜ?
きっと……貧血のせいだよね……

シンと静まり返った廊下に、弱々しい足音と、それを必死で支える健気な足音が重なり合って響いている。
私の耳に届く、荒い呼吸……
力を失ったわたしの身体が感じる、少女のおぼつかない足取り……
それでも、わたしの肩を担ぐようにして、懸命に歩いている。

わたしは、わたしより小柄な女の子に身体を預けながら考えてた。

この1カ月……わたしはたったひとりで走っていた。
辛いことも、悲しいことも、ひとりで背負うものだと思っていた。

誰かのために犠牲になる。
これって、映画のヒーローみたいで格好いいよね。
…… ……?!
……ううん、なにか違う……

わたしは、勝手にひとりで走って、勝手にひとりで立ちすくんでいたんだ。
…… ……
ちょっとだけ考えた。
本当に必要なのは、自分を信じる強い心と、決して独りよがりの孤独なヒーローにならないこと……
そして、わたしの周りには、本気で支えてくれる仲間がいることも……

わたし……間違えていたかもしれない。
それなら……?!
身体が勝手に、引きずられていた足に力を込めていく。

わたしも、歩かなきゃ!
それで、ダメなら支えてもらおう。

「有里、無理をしてはダメ……」

わたしは、目を閉じたまま、ゆっくりと口をひらいた。

「舞衣こそ、大丈夫なの……? わたし……結構重いよ」

少女の身体が、ぐらっと揺れた。
そして、涙の混じった声で、わたしの名前を呼んだ。

「有里……」

わたしは、まぶたをひらいた。
そこには、おでこにいっぱいの汗を浮かべながら微笑む少女がいた。
ううん、わたしの親友、舞衣がいた。
わたしは、彼女の耳元でささやいた。

「ふたりで、校庭に行かない?」



           八月 二十二日 金曜日 午前十一時   副島 徹也


「麗しい友の愛……ですか。
略して友愛では、どこかの政治家のようで面白くありませんが、いいものを見せてもらいました」

校庭の端にある木陰のベンチで、ふたりの美少女が談笑している。
私は、遠く離れた校舎の陰で、ふたりの様子を覗き見しながら、計画の進行状況と修正点の検証を行っていた。
もちろん、頭の中でと言いたいところですが、資料がいっぱい詰まった手帳は手放せませんね。

有里への仕込みは、これまで通りジワジワと行うとして……
問題は吉竹舞衣の方ですね。
あの娘をどうやって、追い込むか……

性格は、やや内向的。
高校時代は、文芸部。
趣味も読書。
……それも西洋文学ですか。
あの、運動大好き娘とは正反対ですね。
結構、お堅そうな感じがします。

私は、手帳に記された吉竹舞衣の資料をもう一度チェックしてみる。
そして、今、有里と熱心に話しこんでいる舞衣の表情……
教室からここまで有里を支えて来た舞衣の行動力……
それを、資料と重ね合わせて……

ククククッ……この娘……
面白いかもしれませんね。
私が思っている以上に、芯が強そうです。

私、腹の中から湧きおこる貪欲なまでの自分の性に、うち震えるくらい気持ちを高ぶらせていた。
次々と脳裏に浮かぶ、ふたりに対する性的な責め。
早く、あのふたりが手を取り合って泣き叫ぶ姿を、拝見したいものですね。

そのためにも、あのふたりが今、何を話しているかですね。
こんなことなら、つまらない盗撮カメラよりも、有里に盗聴器具でも忍ばせておくべきでした。

まあ、有里の性格を考えれば、これまでの経緯を洗いざらい舞衣に話すとは思えませんが、これ以上ふたりを接触させておくのは、危険かもしれません。
当面は、ふたりを引き離した上で、個別に行為に及ぶ方が得策でしょう。

そうと決まれば、早速舞衣に会う必要があります。
今日の昼からでも接触しましょうか。

それと……今思い出しましたが、私の盗撮ホールペンは無事でしょうね。
私は、ポケットに収めた有里のブラジャーを握り締めながら、ベンチに座るふたり連れをじっと見つめていた。



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首に巻き付く鎖























(三十四)


八月 二十二日 金曜日 午後一時三十分  吉竹 舞衣
   


♪♪……♪♪……♪♪……♪♪……

何か月ぶりだろう。心がこんなに軽く感じるのは……
わたしは、鼻歌でも歌いたくなる気持ちを我慢しながら、駅へ向かって歩いていた。

有里がわたしに話をしてくれた。
昔の友人の顔で話かけてくれた。

体調の悪い有里の身体を必死で支えて、手足には疲労が溜まっているはずなのに、今はなにも感じない。
それどころか、疲労感さえ心地よい。

確かに、これで全てが解決したわけではない。
有里のお父さんの病気……
わたしの父のこと……
そして、わたしと有里の間にも、まだまだ、わだかまりは残っていることも……

これからも、わたしは有里と有里の家族には贖罪を続けなければならない。

でも、今日だけは忘れさせて欲しい。
せめて、神様がプレゼントしてくれた、この一瞬だけでも……



「吉竹……舞衣さんですね……」

駅の改札口を抜けて、駅前の広場に出たところで、わたしは、見知らぬ男性に呼び止められた。

誰だろう?
わたしは、この人を知らないのに、彼はわたしの名前を呼んだ。
それにしても、背の高い人……
スラッとしているけど、180センチくらいはありそう。
ただ……遊び慣れている感じがして、わたしはこういうタイプの人は苦手かな。

わたしは、警戒するような顔で返事をした。

「はい……そうですけど……
なにか……ご用ですか?!」

意識してないのに、語尾が強くなっている。
わたしの幸せな時間の邪魔をしないで欲しい。
でも、この心情が言葉の端に出たのかもしれない。

「少しお話がしたいのですが、よろしいでしょうか?」

「いえ、わたしは興味ありませんので……」

やっぱり、いかがわしい仕事のスカウトみたい。
わたしは、男性から視線を外すと、足早に歩き始めた。

「早野有里さん。ご存知ですよねぇ?」

背後から投げ掛けられた言葉に、両足が止まる。
歩道の上で、わたしは立ち止まっていた。

「有里が……どうしたの?」

振り返ったわたしは、男性を見上げた。
ゾクッとするような冷たい光が、両目から漂っている。
脳裏に、今朝の有里の服装が映し出される。

あの子、まさかこんな男と……

「ここでは、なんですので……」

彼は、路地の奥に見えている喫茶店の看板を指差した。

……嫌な予感がする。
あそこに行けば、久々に訪れた幸せな時間を消失することになる。
有里にとっても、わたしにとっても……
それでも、男の口から彼女の名前が出た以上、ここは付いていくしかなさそう。

わたしは、男の案内の元、喫茶店の扉をひらいた。

チリン、チリン……

客を知らせる呼び鈴が鳴っても、カウンターの中にいる店のマスターは、こっちを見向きもしない。
わたしと背の高い男は、店の奥にあるテーブル席に、向かい合うように座った。
昼下がりの時間帯と路地の奥にある立地条件のせいか、店内の客はわたしと彼を含めて4人ほど……
閑散とした店内に流れる優雅なクラシックの曲と、ほどよい空調。
それでも、胸の不安を解消する手助けには、到底及ばない。

しばらくすると、年配のウエイトレスが、お水をトレーにのせて、注文を取りに来た。

「私はホットを、えーっと、きみは?」

わたしは、少し迷って紅茶を注文する。

年配のウエイトレスは、機械的な笑顔を浮かべながら、オーダーを復唱すると、マスターの元へ再び戻って行った。

「あの、お話って……」

わたしは、周囲に人の視線がないのを見計らって、口をひらいた。
それでも、緊張のせいか、声帯が震えて、声が上ずっている。
結局、必要最低限の単語を選んで話すと、わたしは、男の言葉を待った。

「まずは、これを見てもらえますかぁ……?」

男はそう言うと、テーブルの上にタブレット端末を置き、電源を入れた。
そして、指先を液晶画面に何回かタッチさと、なにかの動画が再生させた。

どこかの応接室だろうか?
皮張りのソファーにガラスの机、それに木製のキャビネット。

これだけでは、意味がわからないと思ったのか、男の指先が再度画面に触れた。
映像が早送りされる。

単調な静止画は突然流れ始め、画面の中に1組の男女が登場した。

「そ、そんな……?!」

わたしの呼吸は止まり、心臓は凍りついた。

そして今、音がない映像の中で、その男女が裸で絡み合っている。
男の顔は、今、わたしの前に平然と座っている人……
女の顔は……

「有里……!!」

わたしは、画面を凝視し続けた。
男女のこんな姿を見るのは初めてだった。
……ショックだった。

それも、わたしの大切な友人がこんなことをしているなんて……
画面の中では、足を大きくひらいた有里の下半身に、男が腰を打ち付けている。
何度も何度も……

でも、わたしにはすぐにわかった。
この行為に愛がないことを……

有里は泣いていた。
涙を流しながら叫んでいた。
声を聞かなくてもわかる。
あの、元気で明るくて心優しい有里が、泣かされている!

「もう、いいです。……止めて下さいッ!」

自分でも、ゾクッとする殺気だった声を出して、わたしは、有里を泣かせた男を睨みつけた。

「あなた、有里になんてことを……」

こんな惨い映像を見せながら、薄い笑みを浮かべたまま男に、わたしは人ではない何かを感じた。
そう、この男は悪魔だと……

「お待たせしました。コーヒーと紅茶になります」

そんな淫靡で静寂な空間を、さっきのウエイトレスがかき乱した。

咄嗟に、液晶画面に目を走らせる。
……良かった、消されている。

ウエイトレスが去ったあと、平然とコーヒーを口にする男に、わたしは湧き上がる怒りを必死で堪えながら、詰問した。

「どうして、有里がこんなことを……
教えてッ、どういうことなの……?」

「ええ、舞衣さんにもよくわかるように、詳しく話してあげますよぉ。
ただし、ショック死しないで下さいねぇ。
ククククッ……」

男の顔が、醜い笑顔に歪んだ。


1時間後、わたしは覇気のない足取りで、自宅へと向かっていた。
もし、同じ人が駅を出た頃のわたしと、今のわたしに会ったとすれば、別人と思うかもしれない。

「明日午後8時に総合病院まで……か」

あの男、副島と名乗っていたけど、わたしに有里の手助けをするように持ち掛けてきた。
そう、エッチのこと……

その覚悟があるなら、指定した時間に来るようにと……
そして、この話は決して誰にもしゃべるなと……
当然、有里にも……

あの後、副島からは、言葉通り死にそうなくらいショックな話をたくさん聞かされた。
有里のお父さんの病状のこと……
そのせいで、有里が奴隷みたいな契約をさせられたこと……
そして、行為という名の元で、数々の恥辱にさらされたこと……
行為ひとつひとつの、耳を塞ぎたくなるような詳細な内容まで……

今日の有里の過激な服装にも、これで納得がいく。
あの子、ブラジャーまで取り上げられて……

恥ずかしくて、辛かったでしょうね。

でも、どうして何も言ってくれないのよ。
有里のバカッ……あなたは大バカよ……

ひとりで、何でも背負いこんで……
あなたは昔からそうだった。
でもね、今度のことは全てわたしの責任。
有里はなにも悪くないよ。

だから、わたしが…舞衣がこの身体で、有里を守ってあげるからね。



            八月 二十二日 金曜日 午後四時   水上 千里


「早野さん、検温の時間ですよ」

私は、そっと扉をひらいて病室に入った。
あらっ、今日は有里も一緒のようね。

ベッド脇の丸椅子に腰かけているのは、毎日のように御主人のお見舞に訪れるこの人の奥さん。
そして、有里の方は、私に軽く会釈をすると、恥じらうようなしぐさを見せて顔を背けた。

まだ、昨日のわだかまりが残っているのかしら……
もっと、さばさばした感じの子だと思ったんだけどな……
それとも……?

私は、沈んだ表情で窓の外を眺めている有里に、ある疑念を抱いていた。

そういえば、この前の夜も……
そう、私と初めて会ったときのこと……
一体、あの応接室で、あの子、ううん、有里はなにをしていたのかしら?
確かあのときの彼女も、今と同じ哀しい顔をしていた。

……なんか歯がゆいわね。
悩み事があるなら、相談に乗るのに……

ねえ、そこにいるあなたも、そう思うでしょ。
今さら隠れたって無駄よ。
さっきからそこにいるのは、気付いていたんだから。

それよりも私、彼女のことが心配なのよ。
この後、あなたの手を借りることになるかもしれないから、私の情報を教えてあげる。
まあ、独り言だと思って付き合ってね。

私はあの夜のことを、少し思い出していた。
……あれは、確か午後7時過ぎだったかな。
ナース室で作業をしていた私に、副島という人から指示があったのは……

私はこの病院に来て間がないから、詳しくはわからないけど、同僚のナースによると、どうやらこの副島という人、この病院の臨時役員をしているらしいの。
それも、医師免許はおろか、医療資格さえ持っていないって噂のある人……
いつも、スーツ姿で院内をブラブラしていて、あの応接室を自分の事務所代わりに使っているって同僚の彼女、興味津津って顔で教えてくれたわ。

でも、これっておかしいわね。
私もナースになってまだ3年だから、例外もあるかもしれないけど、普通、病院の経営陣に医師以外の人が携わるというのは、聞いたことがないから。

あっ、話がまた脇に飛んでいきそうね。
元に戻すわね。

それで、副島さんからの指示によると、午後8時半過ぎに早野有里という少女が、夜間受け付けに来るだろうから、例の応接室まで案内を頼むと……
用件の方は、2時間程で終わるだろうから、その時はまた頼むって……

あの時は、驚いたわ。
早野って苗字で、まさか、あの人の娘さんって思って、同僚に聞いてみたら、やっぱりそうみたいだから。

それに副島さん、気になることを言っていたわ。
有里を案内している間、絶対に話しかけるな。
また、用件が終わるまであの部屋には近づくなって……
どう考えても変でしょう。

おまけに彼女……
来たときも、あまり元気がなかったけど、帰りは、もっと深刻そうに思い詰めた表情をしていたわ。
それに顔が真っ赤で、歩き方までぎこちなくて……
妙に小股で、私がゆっくりめに歩いても、ついてくるのが精いっぱいって感じ……
それと、髪が濡れていたけど、シャワーでも浴びていたのかしら?

私には有里が、あの部屋で酷い目に会っている気がするんだけど、あなた、どう思う?
もしそうだとしたら、許せないよね。

まあ、これは私の思い過ごしかもしれないけど、これからも有里のことは見守ってあげた方がいいと思うの。
あの子のことは、小さい頃からよく知っているしね。



さあ、検温も終わったし、体温の以上もなしと……
私は、ふたりに悟られないようにしながら、ベッドに横たわる彼に心の中で話しかけた。

おじさんは、私のこと覚えている?
今は、水上千里って名乗っているけど、8年前、おじさんの家の近所にいた頃は、横沢って苗字だったの、思い出した?
……ううん。無理よね。
おじさんは、仕事が忙しそうで、私に会ったのも数えるほどだったからね。
でもね、私や近所の子供たちと暇があれば遊んでくれて……
私、お父さんがいなかったから、嬉しかったな。
そのときだけは、私のお父さんのような気がして……
あっ、これは有里には内緒ね。
こんなことを彼女が知ったら、悲しむかもしれないから。
おじさんも、早く病気が治るといいわね。
私も、一生懸命看護するつもりだから、おじさんも、がんばってよ。
じゃあ、またね。
……おじさん。

さてと……
私、もう行くけど、あなたも付いて来なさいよ。
どうせここにいても、することなんてないんでしょ。
あんまり暇そうに見えるから、今晩付き合ってあげる。
……別にあなたと食事ってわけじゃないわよ。
私、ある人と会うことになっているから同席して欲しいの。
やっぱり、ひとりじゃ心細くて……
お願いね……♪♪

私は、静かに扉を閉めると病室を後にした。

それにしても、有里のミニスカート姿、可愛かったな。
ちょっと露出気味だけど、スカートからはみ出した太ももには、はち切れそうな若さを感じるもの。

まだ、18歳か……
若いっていいよね。

まあ、そういう私も、まだ21だけどね。
一度、ショーツが見えそうなくらいのミニスカートでも、履いてみようかな。



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思わぬ再開&恥辱の決意























(三十五)


八月 二十二日 金曜日 午後九時  水上 千里
   


「失礼します。
松山先生、おられますか? ……水上です」

私はナース服姿で、松山先生の診察室を訪れた。
服装は、最後まで迷っていた。

制服で行くべきか……?
勤務時間がかなり前に終わっているので、ラフな私服にすべきか……?

ツマラナイ問題に思うかもしれないけど、この前の松山先生の口ぶりは、私にただならぬ警戒感を与えていた。
そして、私が選んだのは制服だった。
私の心は、医師としての松山先生を信じていたのかもしれない。

時刻は午後9時過ぎ。
本来なら、アパートの自分の部屋で、缶ビール片手にテレビドラマでも見ている時間。
でも今晩は、私にとって大変なことが起きそうな気がする。

気を引き締めても、無理なものはあるけど、やらないよりはマシ。
私は、大きく息を吸い込むと、診察室の奥にある先生のデスクに向かった。

「約束通りに来てくれましたね。
まあ、そこに座りなさい」

先生は、患者用の丸椅子に私を促した。
こうしてみると、夜の診察室って不気味ね。
天井の明りは全部落ちているし、室内を薄明かりに包んでいるのは、ドアの上に設置された非常灯の光。
先生の顔がデスクのライトに照らされて、まるで……やっぱり失礼だからやめておく。

「コーヒーでも飲みますか?」

「いえ、結構です。
それより……あの、大切な話というのは……」

「ああ、そのことね」

先生は素っ気なくそう言うと、デスクの引き出しから数枚の写真を取り出し、トランプのカードのように並べた。

「君。こういうのに興味はありますか?」

「……えっ?……!!」

デスクの光が反射して……?
……?!!……!

「ひぃッ! これって……先生っ! 一体なんのまねですッ!
こんな卑猥な写真を並べて……
こう言うの……セクハラじゃないですか!」

目に飛び込んできたのは、淫らな女性の写真。

ビルの屋上でスカートを捲り上げている人……
交差点の真ん中で、胸をさらけだしている人……
大勢の男たちの前で、自分を慰めている人……
それなのに、この女の人たち、恍惚の笑みを浮かべている。

まさか、この先生。こんな恥ずかしい写真を見せるために、私を呼んだっていうの……
冗談じゃない。私を馬鹿にしないでよ。

「どうです水上君。やってみる気はないですか?」

「いい加減にして下さいッ!!
私は大切な話があるっていうから、ここに来たんです。
それが……こんなふざけたことって……
私、仕事と遊びの区別のつかない人って大嫌いなんです。
申し訳ありませんが、失礼させてもらいますッ!」

あーあ。お手当に釣られて、こんな病院に来るんじゃなかった。
やっぱりこの先生……
初めて会ったときから、目付きがアヤシカッタけど、まさかこんな趣味があったなんて……

「待ちなさい。話はまだ終わっていませんよ。
この前君に合わせたい人がいると言ったのを、もう、お忘れですか?
クックックックッ……
この人の顔を見れば、きっと水上君の気持ちも動くと思いますよ。
……さあ、座って、座って」

先生は、両手で私をなだめると、コーヒーをすすった。

こんな屈辱を味わったのは、何年ぶりかしら。
もう少しで、なにもかも忘れるところだった。
でもここで、頭に血が昇ったら私の負けよね。
我慢、我慢よ、千里。

「さあ、入ってきなさい。
懐かしい人が待っていますよ」

先生は、二ヤリと意地悪そうな笑みを浮かべると、診察室に隣接する処置室に向かって、声を掛けた。

ガチャッ!

ドアノブを回す小さな音が反響する中、大柄な男性が私の前に姿を現した。
天井の照明がほとんど落とされ、非常灯の明かりにボーっと照らし出された、その顔は……?!

「お兄ちゃん……?!」

先生の言った通り懐かしい顔。
私のたったひとりの兄、良一兄さん。
でも、どうしてここにお兄ちゃんが……
私のお兄ちゃんは……お兄ちゃんは……

「そう、君のお兄さんは、一度死んだ。
いや、死んだことになっている」

私は、兄の元へ歩み寄ろうとした。
でも、足が……足が震えて……立ち上がれない!
私は、もう一度叫んだ。(お兄ちゃん)って……
…… ……
…… ……
でも、私の耳にも、私の声は聞こえなかった。
喉も……震えている。
私は、首だけ僅かに動かして、兄の姿を見つめた。
そして、動かない唇で自分につぶやいた。

「夢じゃないよね……夢なら覚めないで……」

身体が強張った私を尻目に、先生は椅子から立ち上がると、兄の肩に手を置いた。

どうしたの? お兄ちゃん。
私、ここにいるんだよ。
私だよ、お兄ちゃんの妹の千里だよ。
お兄ちゃん、なにか言ってよ。
私の名前を呼んでよ。

「無駄ですよ。水上、いいえ千里さん。
君のお兄さんは、確かに生きている。
しかし、生きているだけなんですよ。
君がどんなに話しかけようが、手を握ろうが、ここに立っているのは、昔の良一君ではない。
彼は、私たちの言うことだけを忠実に聞く、ロボットみたいな物なんですよ」

嘘! お兄ちゃんが私のことを忘れるなんて、そんなの嘘に決まっている。
あの優しかったお兄ちゃんが、私のことを覚えていないなんて……そんな……そんなことって……

「千里さんも、覚えているでしょう。今から3年前のことを……」

3年前……?!
そう、今でもはっきりと覚えている。
私はあの当時、念願のナースになれて充実した毎日を送っていた。
慣れない環境、意地悪な先輩もいたけど、夢が叶ったのだから頑張らなければ罰が当たると思って一生懸命がんばっていた。
早く一人前のナースになるんだ。
そして私、お兄ちゃんと……

そんなある夏の日の午後……
あの日も今日と同じで、残暑の厳しい1日だった。
突然、1本の電話が私あてに掛ってきた。
……母からだった。
その声は、か細くて、嗚咽まじりで聞き取りにくかった。
それでも、話の重大さは私にもすぐに理解出来た。
そして、茫然とした。

お兄ちゃんが……死んだ……

兄は、苦労して医科大学を卒業した後、地元の総合病院で研修医として働いていた。
その兄が、勤めていた病院の屋上から突然、身を投げた。

私と母は、兄が待つ病院へ急いだ。
なぜ、兄が死を選んだのか、理由がわからない。
母も同じだった。
そんな茫然自失の私たちを出迎えてくれたのは、兄の同僚医師と上司である病院の外科部長だった。

兄の上司である先生は、淡々と経過報告をした後、私たちに意外なことを告げた。

「水上良一君は、当病院において献体を望んでいた」

つまり、死後の自分の身体は医療技術確保のために、人体解剖に供するということ。
更に、葬儀その他のことは、この病院主導で執り行い、結局、兄にも合わせてもらえなかった。
あきらめがつかず、抗議する私に突き付けられたのは、兄直筆の署名がある誓約書だった。

確かに、兄の字だった。

私と母は、ふたりきりで兄の遺影に手を合わせて、兄を見送った。
寂しくて、納得がいかない葬儀だった。

その死んだはずの兄が、私の目の前に立っている。

「その後のことは、私から説明しましょう」

松山先生は、再び椅子に腰かけると私の顔を見た。

「実は、水上君の投身自殺は、君たち親子を欺くためのお芝居だったんですよ」

「お芝居って……どうして、兄がそんなことを……」

「当時、水上君は医療上大きなミスを犯していてね。
訴訟騒ぎが起きていたんだ。
焦った彼は、自分の上司に泣きついて、なんとか穏便に運んでもらえるよう頭を下げた。
だが、問題の根は想像以上に深くてね、上司の一存でなんとかなるレベルを超えていたんだ。
このまま、事が大きくなれば、彼の医師免許どころか、この病院さえ危うくなる。
当時、その病院に私も勤めていたからよく覚えているよ。
あの時は、私も失業かと思ったからね。
だが、病院は存続できた。
あるお方が、救いの手を差し伸べて下さったお陰でね。
その方の解決方法は、実に素晴らしいものだった。
まず、訴訟を起こさせないために、水上君は自殺したことにして死亡届を提出させる。
そして、君たち家族を欺くために、献体という手を使った。
もちろん、署名は水上君が自ら書いた。
いやあ、うまくいきましたよ。
結局、訴訟は起こされず、病院も無事だったんだからね。
後は、あの方の条件に従うだけ……」

「その方の条件って……?」

私は、松山医師の説明を聞きながら、信じられない思いだった。
正義感の強い兄が、職場でこんな卑劣な行動をとったなんて……
でも……それ以上に心配なことがある。
兄は、どうなったの?

「それが、我々にとってはあまりにも意外な条件だった。
水上君をその方の会社で社員として雇いたいと言うんだからね。
彼は、戸籍上死んだことになっている。
このまま、病院にいてもらっても困る人材だったから、こちらとしても好都合だった。
あとは、苗字が水上では、あちらさんも嫌がるだろうから、取り敢えず父方の旧姓である横沢を名乗らせることにした」

「それでは、兄の名は、横沢良一?」

「そう。確か君も……以前は、横沢姓を名乗っていたんだってね」

男は、いつの間に取り出したのか、私のスナップ写真が何枚も貼られたファイルをひらいていた。
私の職場でのナース服姿、ラフな私服でアパートでくつろいでいる姿。
いったいいつ撮られたのか?
きっと、盗撮されてたんだ。
……だとすると、この男の狙いって……?!

脇を引き締めた私に、松山医師は下卑た笑みを投げ掛けながら、話を続けた。

「苗字を変更し、うまく君たち親族をだましたものの、まだひとつだけ、良一君には施さないといけないことがあってね」

「兄を、兄になにをしたんです!」

私は、感情を失い人形のような兄の姿に、不吉なものを感じて思わず声を荒げていた。
それなのに、お兄ちゃんは表情ひとつ変えてくれない。

「そんな、大それたことはしていませんよ。
ただ、水上君の精神をイジッテあげたんです。
要するに、マインドコントロールです」

「そんなことが……?!」

「ええ、可能です。
水上君には、特に強力なものを施していますから、ほとんど私たちの言いなりでしょうね。
どうやらその方は、言いなりになった水上君を使って、法律違反すれすれの仕事をさせていたのではないでしょうか。
……というより、犯罪行為をさせていたかもしれませんね。
何といっても、彼は、もはや人間ではありませんから……」

「ひどいッ!……あなたの方こそ、人間じゃない。
私の兄を……お兄ちゃんを返してよッ! この人でなしッ!!」

私は、兄の元に駆け寄った。
そして、手を取る。

「さあ、お兄ちゃん。帰ろう。
今まで、辛かったでしょう。ごめんね。
千里、なにも知らなかったの……
ねえ、お兄ちゃん!?
なにか……言ってよ!」

「だから無駄だと言ったんです。
残念ながら、君の言葉には反応しません。
…… ……
仕方ありません。そこで見てなさい」

そう言うと、松山先生は兄の顔を見つめて、ひと言命令を掛けた。

「自分の首を絞めなさい!」

お兄ちゃんは顔の表情を変えることなく、両腕で自分の首を掴むと、指先に力を込めた。

う、嘘でしょ。
自分で自分の首を締めるなんて……?!
でも、そんなことって……!

「くぐっ……うぐっ……ぐっ……ぐぅぅッ……」

喉から断末魔みたいな呻き声が漏れる。
顔が、死人のように青ざめていく!
お兄ちゃんが……お兄ちゃんが、このままでは、死んでしまう!!

「止めてぇッ! 止めさせて下さい! お願い……お願いします……」

涙ながらに懇願していた。
ナースキャップが振り落とされるほどの勢いで、頭を振っていた。
さっきまでと態度が違ったって、そんなのどうでもいいじゃない。

せっかく会えたのに……
それなのに……
たったひとりのお兄ちゃんを、こんな形で失うわけにはいかなかった。

「先生、ごめんなさいっ! 失礼なことを言って……本当にごめんなさいッ!
だから……兄を、早く……兄を助けてぇッ!!
早くして……死んじゃう!!」

気が付けば、土下座までしていた。
冷たくて無機質な床の上に、おでこをこすりつけて、喚くように謝っていた。
そうしたら、声が空から降って来た。

「わかれば、いいんですよ。わかれば……
これで、私に逆らえばどうなるか、理解できましたか?
ついでに、千里さん。
あなたの身の振り方も、考えておいてくださいよ」

先生は、兄に向って再び命令を掛けた。

「止めなさい!」

兄の両手が動きを止める。
役目を終えて下に降りて行く。
血の気を失った死人の肌に、わずかなから赤みが差した。

「よかった……」

私は、床にひれ伏したまま涙を流していた。
人前で泣くなって、誰かに言われたことがある。
でも、我慢出来なかった。
これは、うれし涙なの?
それとも、悔し涙?
ううん、いろんなのが入り混じった、ものすごく塩辛い涙。
だったら、泣いてもいいよね。
だって、目がしみて辛いんだから……



「それでは、千里さん。
もう一度聞きますよ。
あなたも、こういうことに興味がありますよね?」

男の尊大な声が、また空から降って来た。
床にうずくまった私の前で、先生は椅子に仰け反るように座って、まるでどこかの国の指導者みたい。
そして、声を追いかけるように、数枚の写真がヒラヒラと舞った。

私は、床に散った写真を全て回収し、男の前に進み出た。
そして、小さくうなづいた。
手に持った写真は、最早、見る必要はないと思う。

「ほーぉ。千里さんは、人前で肌をさらすのが大好きな変態だと、認めますね?」

私は、感情のないロボットのように、もう一度うなづいた。

尊大な声に、侮蔑的な言葉。
しかし、心がマヒしかかっている私には関係ない。

……仕方ないでしょ。

わずか、10分ほどの間に、今まで生きてきた中で経験したことがないような、ショックの連続だったんだから。
でもね、心の片隅に追いやった理性が薄々感づいている。
おぼろげながら、私の首に鎖が巻き付いたことを……



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